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定遠(ていえん、、)は、清国海軍の戦艦で定遠級の1番艦。同型艦に鎮遠がある。 == 艦歴 == 本艦は鎮遠と共にドイツに発注され、ヴルカン・シュテッティン造船所で建造された、清国海軍の主力艦である。契約後の1883年には艤装が終了し回航を残すのみとなっていたが、清仏戦争の影響でドイツが中立を保ったため、戦争終結後の1885年10月に就役した。装甲及び武装は同じ造船所で建造されたザクセン級装甲艦「ザクセン」(SMS Sachsen, 1878年)を元に設計されており、定遠級戦艦はその小形版とも言え、類似する設計が多い。 就役後は清国北洋水師の旗艦を務め、1886年(明治19年)には示威を兼ねて朝鮮、ロシア、日本を歴訪した。日本訪問の際には、その強大さと船員の乱行(長崎事件)から日本社会にとって大きな脅威として受け止められた。 日清戦争が勃発すると、黄海海戦(1894年(明治27年)9月17日)に参加したが、主砲による砲撃中、艦橋が崩壊、司令官丁汝昌も負傷し指揮能力を失った。その後、159発の命中弾を受けるが、死者17人負傷者38人を出したのみで作戦能力は健在であった。 黄海海戦の後は威海衛で防備に当たっていたが、1895年(明治28年)2月5日に水雷艇の夜襲により雷撃を受けて擱座。なおも砲台として戦闘を継続したものの9日には陸上からの攻撃を受け損傷した。翌10日、日本軍による鹵獲を避けるために自沈。艦長の劉歩蟾も自決を遂げた。 艦体の一部は翌年引き上げられた。福岡県太宰府市には引き上げられた定遠の艦材を使った「定遠館」という記念館があり、門の扉は定遠の鉄板を使用している。館の玄関には艦内の手すりと思われるもの、正面の梁に装飾を施した部材(木)、左手の縁側の下には端艇の櫂を見ることができる。 そこは太宰府天満宮の神官の一人である小野(三木)隆助の邸であったが、そこに私財を投じて建てられた。太宰府天満参道を登って右手案内所のそばに定遠館があるが、前庭は駐車場となっている。 現在、威海港で復元艦が展示されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「定遠 (戦艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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